中国鉄道大紀行 その80 長生きですねえ!

10月18日は図們(ともん)から牡丹江(ぼたんこう)を経て、今回の旅の東端地点、鶏西(けいせい)に至ります。リアル関口さんは今週の金曜ぐらいに西端地点ジュンガルに到着して、36000kmの旅グランドフィナーレを向かえますので、このあと一気に東端から西端まで移動することになりますね。
朝4:30、図們発。早朝の出発です。夜が明けるに連れて沿線の家々から煙りが立ち上ぼっているのが見えました。暖房と炊事の煙りです。まきか石炭かを使っているのでしょう。この地方の冬の風物詩だそうです。
車窓にトウモロコシ畑が広がってきました。収穫期を向かえて三輪トラックの脇に、トウモロコシがうずたかく積まれています。牛車の姿も見えました。昔ながらの農村風景です。第二次大戦前には多くの日本人も入植していたそうなので、当時の人もこうした暮らしをしていたのかもしれません。
9:52、牡丹江着。人口271万人。ハルビン、チチハルに次ぐ黒竜江省第3の都市で、牡丹江というアムール川に注ぐ川のほとりに開けた街です。船でアムール川から日本海に出られるので、内陸の割に貿易が盛んだったりします。
大都市の割に、駅前には三輪トラックや牛車が行き交っていてのどかです。一人の老人が関口さんに、どこから来たのかと話しかけてきました。
「日本からです」
「昔、住んでた近くに日本人がいたよ。日本人の開拓団が来てたんだ」
このおじいさんの家でお話を伺うことになりました。部屋に上がらせてもらうと、昔の写真が飾ってありました。
「これおじいさんの写真ですか」
「若い時の写真さ。70年前だ」
奥さんや息子さんらしい人と並んで写ってます。これが70年前とすると‥
「えぇ?おじいさん、お幾つ??」
「91才だよ」
とても91には見えません。お若いです。
「長生きですねえー!!」
おじいさん、嬉しそうにニッコリ笑ってました。
「日本人は礼儀正しいね。朝も昼も挨拶する」
「昼はコンバンハ、夜はコンニチハ、朝はオハヨウしますだったかな」
少し違ってますが、でもよく覚えてらっしゃいますね。
大戦末期、ソ連軍が満州に攻め込んでくると牡丹江周辺は最前線になりました。しかし南方に戦力を転用して弱体化していた関東軍は、あっという間に総崩れ。取り残された多くの日本人が残留孤児となったり、シベリアに抑留される運命をたどりました。
「シベリアに抑留される日本人を見たよ」
「男たちを乗せた列車が動き出すと、女たちが泣きながら手を振って‥」
「男たちも手を振って日本語で叫んでいた」
「何を言ってるか分からないけど、見てるだけで本当に辛かった…」
私の祖父もこの時期、シベリアに抑留されてそれっきり消息不明になってますので、こういう話はひとごととは思えません。写真でしか見たことのない祖父ですが、どこでどのような運命をたどったのか。沢山の人が歴史の波に翻弄された時代です。こういうことは、なるべく起きないようにしなければなりません。
「ご飯が出来たよ。食べてったら」
奥から声がかかりました。おなかを空かせていた関口さん、両手をあげてご馳走になることに。床暖房の居間に丸いちゃぶ台は、昔の日本の食卓のようです。奥さんの手料理はどれも美味しそうでした。
13:40、牡丹江発。秋色の風景の中を列車はゆっくり北東に向かいます。今度は日本語を勉強している年配の男性に会いました。とても熱心です。
「恩師が日本で暮らしています。奥さんが残留孤児ですから」
それで、いつか日本に行きたいとおっしゃってました。
「今はお金がありませんが」
18:16、鶏西着。雨がしとしと降ってました。中国東北部は日本との関わりが深かっただけに、至る所で日本との因縁を感じさせられます。果たして鶏西では、どんな出会いが待っているのでしょうか。
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