「公共性」論 第5章
「他律的でひ弱なリベラリスト」と「逞しきリベラリスト」を対比させる章です。
「他律的なリベラリスト」とは自由主義の考え方には同意しながらも、積極的には自由主義を維持するための政治活動には参加しない人のことで、政治的なフリーライダーにあたります。これに対し「逞しきリベラリスト」とは、自由主義の考え方に同意し、自由主義を維持するための政治活動にも積極的に参加する人、ということになります。
通常の考え方では、「逞しきリベラリスト」が望ましく「他律的なリベラリスト」は望ましくないということになるところですが、稲葉氏はさしあたりどちらにも軍配をあげません。「逞しきリベラリスト」は望ましいかもしれないが、複雑化した現代社会で政治活動に参加することは負担が大きく、政治的フリーライダーである「他律的なリベラリスト」が侵入する余地があります。「他律的リベラリスト」ばかりになると、誰も積極的に自由主義を擁護しないので自由主義システムは崩壊する可能性があるわけですが、もし経済的な自由主義を擁護することが経済成長に有利で長期的に自分たちに得であると考える<賢い>支配層が存在すれば、そのような支配層の手によって自由主義が維持される可能性もありえます。
支配層が賢ければという条件がつくところが「他律的」とか「ひ弱な」とかいう形容がつく理由なのですが、それでも後者の可能性があるため「他律的なリベラリスト」という生き方も一概に悪いということはできないだろう、というのが本章の主な内容になります。この<賢い>支配層+「他律的リベラリスト」の組み合わせからなる社会は、以後の章で「テーマパーク型社会」とか「良き全体主義」とかいう言葉で言い換えられて、何がどう良いのか悪いのかが仔細に検討されていくことになるようです。
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