この本の第一章~第三章は主に技術的な側面から<源平合戦>を検証していきます。一、二章で騎馬戦の実態を論じ、三章では騎馬隊を防ぐ施設とそこに動員された工兵隊に触れています。第四章~第六章はそれを受けて、内乱に動員された人々や社会的影響、内乱の帰結について考察していきます。四章は兵糧や軍勢そのものの調達、五章は敵方から没収した所領を分配することによって成立した御家人制度、六章では内乱期仕様の御家人制度を平時の制度として再編成していくために仕掛けられた<奥州合戦>を論じています。
前半の技術論だけでも十分面白かったのですが、後半の御家人制度成立と奥州合戦による再編成の部分はゲーム理論的にも興味深い内容でした。そんな訳で、順に考察を加えながら紹介してみたいと思っています。
第二章は騎馬戦技術論の続きです。まず弓について、馬上から射る弓は通常より短めのつくりで、射程距離も13~14mくらいであったようですね。これぐらいの距離までは馬で接近しなければならなかったようです。飛び道具を使うといえども割と接近戦だったといえるでしょう。
中世の馬の大きさは発掘された骨から推定するに体高130cm前後で、今のポニーや木曽馬程度だったようです。体高140cmもあると名馬だったようですね。良い馬は貴重品で合戦で分捕られることもままあったようですね。
現在の体高130cmの程度の馬に武具に相当する45kgの重さの砂袋をくくりつけた上に人が乗って行った実験の結果が面白かったです。それによると四肢が中に浮く瞬間がある駈歩(かけあし)はほとんどできなくて、その際の最高時速が9km程度。一瞬駈歩ができてもすぐに交互に足を地面につく速歩(はやあし)になってしまい、それも10分ほどしかできなかったようです。
時速9kmなら人間が十分走って追いつける速さですし、それも一瞬のことだったとすると騎馬戦のイメージはずいぶん変わりますね。この短時間の全力疾走で相手の右手後方について射程内に接近し騎射する、あるいはそれから逃れる乗馬術が生死の境目となったようです。
ただし、普段から馬を維持して「馳射(はせゆみ)」を鍛錬できる階層はそう多くはなくて、関東の軍勢がすべて騎馬戦の名手であったわけでは全くないようです。内乱の拡大につれて動員される兵力が飛躍的に増えると、騎馬戦に習熟しない階層も根こそぎ動員され、むしろそちらの方が多数派になっていったようです。
そうなると巧みな手綱さばきで相手の右手後方につけて…といった戦法はとれなくなり、相手の馬を射たり、相手に馬ごと体当たりしたりして馬上から組み落とし、地上での格闘で勝負をつけるといった戦闘方法が主流となったのでした。源平合戦の実像はこんな感じだったようですね。
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