2015年9月11日 (金)

『経済成長の世界史』

原題は「繰り返し起こる経済成長」で、宋の時代の経済成長と江戸時代の日本の経済成長をイギリスの産業革命と比較するのが主なモチーフです。

陰の主役はモンゴル帝国で、モンゴルの支配による悪影響を免れたユーラシア大陸の両端で経済成長の萌芽が見られたという構図がみてとれます。さらに日本の場合、協力の利益を引き出せる程度に強力で、アクター間の競争を妨げない程度に非力な中央権力(幕府)の存在がプラスに働いたようですね。

ヨーロッパの場合は中央権力は合従連衡の結果不在でしたが、アクター間の交易自体は戦争の継続中でも盛んで、それが分業の利益を引き出し得たようです。ただし、イギリスで見られたような政府系証券の発行で資金を調達する方法は、江戸幕府や清では見られず、その辺がイギリスに産業革命で先んじられた原因の一端であったように思われます。

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2015年9月 8日 (火)

『中国経済史』

イギリスとの対比で中国の本を読んでみました。殷や夏の時代から現代まで扱う射程の長い本ですが、中原から江南への経済重心の移動、王朝の盛衰につれて大きく人口が増減しつつも江南開発の進展に伴って全体として人口が増加してきたことが把握できました。

唐の律令兵制が遊牧国家に常時備えるには不向きで(農民を動員するので農繁期の動員が困難)、募兵制に切り替わっていったこと、そのために大量の資金が必要で商業の振興に次第に舵をきっていったあたりが興味深かったです。

唐宋革命で成立した宋では商工業が栄え、イギリス産業革命に600年先駆けて製鉄業も勃興しますが、このときの生産力増大は元明の騒乱で小休止し、清の時期の人口急増(1億→4億)によって吸収されたようです。現在の中国の人口の多さは宋の時代の経済開発に淵源を持つのかもしれませんね。

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2015年9月 3日 (木)

『イギリス革命史』 上下

先週から読んでいた『イギリス革命史』上巻下巻を読み終わりました。清教徒革命から名誉革命にかけての歴史を扱ってますが、半分以上はオランダとフランスの戦争の記述に当てられていました。

最初は「イギリス革命史なのに…」と若干違和感があったのですが、オレンジ公ウィリアムのイギリス遠征が、オランダにとってはフランスとの戦争に勝ち抜くための起死回生の一手だった事情がわかると納得できました。イギリスだけでなくスペイン、神聖ローマ帝国などの列国がルイ14世包囲網が形成されるなかでの出来事が名誉革命だったわけですね。

名誉革命後の権利章典体制下でイングランド銀行の設立が可能になったというのも興味深いです。ルイ14世と戦う戦費調達が主目的ではありますが、多数の国民が出資する国立の銀行が成功するには政府へのある程度の信用が多分不可欠で、名誉革命がそれを可能にした側面があるようです。フランス銀行の失敗との対比について、もっと調べてみたいと思いました。

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2014年3月25日 (火)

『記憶のしくみ』(ブルーバックス)

『記憶のしくみ』(ブルーバックス)
ラリー・スクワイア、エリック・カンデル著『記憶のしくみ』上下巻(ブルーバックス 2013年)を読んでいます。2013年12月発行なのでかなり最新の知見が盛り込まれているとみていいでしょう。

昨日の段階で10章まで読み終わりました。記憶や学習が海馬(意識できる陳述記憶)だけではなく、舌状回(プライミング)や扁桃体(情動学習)、尾状核(習慣学習)、小脳(運動学習や無条件反射)といった各領域で、平行して無意識に生じていることが具体的に描かれていて、大変面白かったです。

また海馬の長期増強や古典的条件付けによる連合学習については、分子レベルでメカニズムが解明されているんですね。こういった知見は今後のモデル作りに取り入れていきたいものです。

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2014年3月12日 (水)

『神経系の多様性 その起源と進化』

『神経系の多様性 その起源と進化』
このところ日本動物学会監修『神経系の多様性 その起源と進化』(阿形清和・小泉修共編 2007 培風館)という本を詰めて読んでいます。昨日の段階で第5章、脊索動物の中枢神経系の起源を論じた章まで読めました。いろんなことが分かっていて面白いですね。

数理モデルを作る立場からすると、ほとんど抽象化して単純化して使うことになるのですが、何を抽象化し単純化したのか把握しておくことが、そんなに的外れではないモデルを作る上で必要だろうと思っています。学習モデルの場合、進化のロジックからある程度外枠が決まってくるのですが、それが具体的にどんな制約のもとで実装されているのか、知っておくことが有用でしょう。

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2013年1月13日 (日)

アシュトン著 『産業革命』

T.S.アシュトン著、中川敬一郎訳 『産業革命』(岩波文庫)を読んでいます。「歴史的大転換を経済史の立場から実証的に平明に述べた名著である」と表紙にあって、多分平明に書いてあるのだと思いますが、イギリスの地名やら人名やら企業名やら団体名にうとい人間にとってはあんまり平明ではないですね。もともとイギリス人向けに書かれた本なので仕方ないことではあるものの、平明に説明するための具体例に馴染みがないとかえって難解になる事例ともなっています。

それでもウィキペディアをたよりに人名や地名を調べながら読んでいくと、産業革命の経過についてかなり詳しくなりますね。紡績機の発展やら、蒸気機関の改良の歴史やらもだいぶ頭に入りました。ニューコメンからワットまではボイラー製作の精度がネックになって減圧型の蒸気機関しか実用になっていなかった(高圧型にするとボイラーが爆発するので)のが、鉄生産と工作精度の向上によって、トレビシックやスチーブンソンの高圧蒸気機関への道が開かれ、蒸気機関で蒸気機関の燃料(石炭)を運べるようになったこと、低圧蒸気機関で産出・精製された石炭や鉄の存在がこの変化に必要であったことなど、様々な事柄が原因となり結果となることで全体のプロセスが進んでいったらしいことが伺えました。

この本が主に扱うのは1760年~1830年の70年間で、この間に農村から都市への人口移動が生じ、農業生産から工業生産への労働力移動が起きていった訳ですが、農場で働いていた人が直接工場で働くようになった訳ではないようですね。初期の紡績工場は大人の労働力を十分調達できず、悪名高い児童労働を大幅に採用することで生産を行うことができました。この子供たちが成長することで工場労働になれた大人の労働力が次第に増加していったようです。イギリスの場合は二世代かけて工場労働者が育成されたことになります。このプロセスを例えば30年ほどで行う後発国では、世代内で農業労働から工業労働への転換が必要になりますから困難はより大きいことが推察されます。

イギリスでは蒸気機関車による鉄道網が出来る前に馬車鉄道や運河による石炭の輸送が行われていました。運河の時代は30年ほどだったようですが、この期間に大規模な土木工事を行う経験と、それを実行する技術者層が育成されました。この技術者たちが蒸気機関車の時代に活躍することになったという指摘もなるほどと思いましたね。人材の育成という観点からすると、イギリスの産業革命と後発国の産業革命を比較するとずいぶん条件が違っているようで、なかなか興味深かったです。

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2012年4月 6日 (金)

『ゲーム理論による社会科学の統合』ハーバート・ギンタス 2011(=Gintis 2009)

今日は一日ギンタス先生の本を読んでいました。もちろん到底一日で読める本ではないのですけどね。あちこち拾い読みして、相関均衡の概念をゲーム理論を社会科学の分析に適用するときの主要な武器にしようとしていること、そこで必要となる「共有知識」が成立する条件を特定しようとしていること、さらに共有知識成立に必要となる人間の認知特性を遺伝-文化共進化の産物としてとらえようとしていることが伺えました。

何らかの(おそらく社会的な)「振付師」の存在によって、プレーヤーが逸脱の誘因をもたない相関均衡が成立し、それが通常のナッシュ均衡よりもパレート改善を可能にする…という話はタカハトブルジョアゲームからもうなずけるところです。ギンタスは社会規範の存在意義を相関均衡を可能にする「振付師」としての機能に求めているようです。

まあ、総論レベルでは特に異存はないですね。各論としてギンタスは認識論的ゲーム理論を用いて「振付師」を共有するメカニズムを定式化しようとしています。共有のプロセスを扱うには認識ダイナミクスのモデルがあるといいのですが、今のところ適当なモデルがないようで静学的な認識モデルが使われています。

総じて、この本には動学モデルは出てきませんね。「合理性」概念の拡張にギンタスの関心があるからかもしれませんが、分厚い進化ゲームのテキストを書いてる人なので少し残念です。動学というより認識論的ゲーム理論を社会科学全般を基礎付ける行動理論にすえる試みの本といえるでしょうか。先は長そうですが、それはそれで興味深い試みです。

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2012年3月 5日 (月)

【源平合戦の虚像を剥ぐ】第3章 源平の「総力戦」

1章、2章では合戦の現場の検証が行われました。3章、4章では柵や堀といった軍事施設や、兵糧や軍勢の挑発といった後方の事情をみていきます。

2章では特に騎射戦の実態を見てきました。馬に乗って射る弓の射程距離は存外短く、馬を巧みに操る技術が勝敗の鍵を握っていました。この騎馬の動きを妨げる施設が柵や堀や逆茂木(さかもぎ。棘のある木を並べて作った障害)といった構築物でした。

当時の馬は大きなものではなく、道を数m掘った程度の空堀でも十分足止めすることができたようです。こうした堀や逆茂木で騎馬隊を足止めしておいて、歩兵が一斉に矢を射かけたり高台から石を落としたりしたようですね。楠木正成みたいな戦法が源平合戦の頃から行われていたようです。これは、軍勢の挑発の規模が大きくなるにつれ、騎馬より歩兵の割合が大きくなることで自然に工夫されてきたのでしょう。

これらの施設を築いたり、あるいは敵の障害物を撤去するには今でいう工兵隊が必要です。当時は山間部で作業する杣工(そまく。きこりのこと)が動員されたようです。平家が北陸遠征に際して興福寺領の山林で寺社の造営や修理に従事する杣工を大勢動員したことが記録に残っています。


さらに堀をほったり、敵方の堀を埋めたりする人夫としては一般の農民も動員されたようです。盾を持ったり、逆茂木を撤去したりということもこうした人夫の務めだったようで、鎧を着てない人夫が盾を持ってる様子が当時の絵巻に描かれています。

こうした工兵隊や人夫の徴発を含めた総力戦が源平合戦の実態だったようですね。

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2012年2月 3日 (金)

【源平合戦の虚像を剥ぐ】 第二章 「弓馬の道」の実相

この本の第一章~第三章は主に技術的な側面から<源平合戦>を検証していきます。一、二章で騎馬戦の実態を論じ、三章では騎馬隊を防ぐ施設とそこに動員された工兵隊に触れています。第四章~第六章はそれを受けて、内乱に動員された人々や社会的影響、内乱の帰結について考察していきます。四章は兵糧や軍勢そのものの調達、五章は敵方から没収した所領を分配することによって成立した御家人制度、六章では内乱期仕様の御家人制度を平時の制度として再編成していくために仕掛けられた<奥州合戦>を論じています。

前半の技術論だけでも十分面白かったのですが、後半の御家人制度成立と奥州合戦による再編成の部分はゲーム理論的にも興味深い内容でした。そんな訳で、順に考察を加えながら紹介してみたいと思っています。

第二章は騎馬戦技術論の続きです。まず弓について、馬上から射る弓は通常より短めのつくりで、射程距離も13~14mくらいであったようですね。これぐらいの距離までは馬で接近しなければならなかったようです。飛び道具を使うといえども割と接近戦だったといえるでしょう。

中世の馬の大きさは発掘された骨から推定するに体高130cm前後で、今のポニーや木曽馬程度だったようです。体高140cmもあると名馬だったようですね。良い馬は貴重品で合戦で分捕られることもままあったようですね。

現在の体高130cmの程度の馬に武具に相当する45kgの重さの砂袋をくくりつけた上に人が乗って行った実験の結果が面白かったです。それによると四肢が中に浮く瞬間がある駈歩(かけあし)はほとんどできなくて、その際の最高時速が9km程度。一瞬駈歩ができてもすぐに交互に足を地面につく速歩(はやあし)になってしまい、それも10分ほどしかできなかったようです。

時速9kmなら人間が十分走って追いつける速さですし、それも一瞬のことだったとすると騎馬戦のイメージはずいぶん変わりますね。この短時間の全力疾走で相手の右手後方について射程内に接近し騎射する、あるいはそれから逃れる乗馬術が生死の境目となったようです。

ただし、普段から馬を維持して「馳射(はせゆみ)」を鍛錬できる階層はそう多くはなくて、関東の軍勢がすべて騎馬戦の名手であったわけでは全くないようです。内乱の拡大につれて動員される兵力が飛躍的に増えると、騎馬戦に習熟しない階層も根こそぎ動員され、むしろそちらの方が多数派になっていったようです。

そうなると巧みな手綱さばきで相手の右手後方につけて…といった戦法はとれなくなり、相手の馬を射たり、相手に馬ごと体当たりしたりして馬上から組み落とし、地上での格闘で勝負をつけるといった戦闘方法が主流となったのでした。源平合戦の実像はこんな感じだったようですね。

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2012年1月26日 (木)

【源平合戦の虚像を剥ぐ】第一章 武士再考

大河ドラマの影響でしょうか、<源平合戦の虚像を剥ぐ+内容>で検索する人がちらほらいらっしゃいますね。せっかく久しぶりに源平時代のドラマをやってるので、簡単に内容を紹介してみましょう。

第一章「武士再考」では武装した在地領主というより、馬上からの射芸=弓馬の芸という特殊技能を身につけた専門的な職業戦士として都で発達した武士の姿が紹介されます。

これは10世紀ごろから増加した地方からの貢納物を略奪する神出鬼没の盗賊集団の対抗する機動力を中央政府側がもつ必要性から発達したというのが、著者の河合さんの見たてです。武士が身に付ける大鎧を生産できる拠点が当時京都にしかなかったことが傍証にあげられています。確かに言われてみればどこでもやたらにつくれる代物ではないですね。

重さ20kgの大鎧を身に付け馬に跨がります。大鎧の重さの半分は馬にかかる仕組みなので馬も大変です。全力疾走できるのはほんの限られた時間だったようですね。ここぞというときに馬を走らせたのでしょう。

右手で弓を引き絞って、ビュンと放つ。矢は馬の進行方向やや左手に飛んでいきます。すれ違いざまに矢を放つとするならお互い相手の右側を通過しなければなりません。右側通行は戦闘モードで左側通行は非戦闘モードだったのかもしれません。

ただ、すれ違いざまに矢を鎧の隙間に命中させるのは至難の技です。一番確実に相手を仕留められるのは、相手の右側後方につけて騎射するケースになります。逆に相手に右後ろを取られると絶体絶命。素早く馬首を右に巡らせ、相手の右側に逃れなければなりません。

このように両手で弓を引きつつ自在に馬を操り、ポジション取りを争う技術は確かに特殊な専門技能というべきで、一朝一夕に身につくものではないでしょうね。

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