2012年5月17日 (木)

中国鉄道大紀行再放送

BSつけたら、♪ 光あるもの~探しにいこう~と流れていてびっくりしました。中国鉄道大紀行日めくり版の再放送をやってるんですよね。2007年の放送なのでもう5年になります。このブログ初期のメインコンテンツなので懐かしいですね。

今日は苗族の村。籠の下のアヒルや田んぼからとってきたといういっぱいの魚に見覚えがあります。川辺のおじいさんや歌いながら豆の鞘取りしてたおばさんも覚えてますね。再見。「また来てね」の挨拶が切なかった記憶も…

みなさん、その後どうしてらっしゃるんでしょうね。中国の5年は長いです。すっかり変わったところも沢山あるでしょう。全然変わってないところも沢山あるでしょうけど、それはそれで気になります。そして関口さんも…。今はどうしてらっしゃるんでしょう?

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2008年3月 5日 (水)

中国の時刻表

このサイトで中国の列車時刻が調べられますね。
http://www.arachina.com/train/china-trains/index.htm

そろそろ、旅行の準備をしなければなりませーん。

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2007年12月15日 (土)

中国鉄道大紀行 その100 ゼロに戻ろう

中国鉄道大紀行 その100 ゼロに戻ろう
11月15日、中国の旅最終日です。36543kmの旅が終わります。

5:45、アグス発。最後の列車は空色に赤のストライプの入ったダブルデッガー(2階建て車両)でした。天山山脈に沿って西に向かいます。9時半ごろ日が昇ってきました。遅い日の出です。砂漠なかをトラックが走り、その向こうをゴツゴツした岩山が続いています。

関口さん、座席で地図を広げました。これまでの旅路がマジックで印されています。しばし眺めて、おもむろにアグス―カシュガル間に赤い線を‥

 「やっと乗り終わるねえ」

鉄道の旅は今回で終わりにするらしいので、日本列島最長片道切符以来、4年間の旅もおしまいです。日本列島乗りつくし、ドイツ、イギリス、スペイン、トルコ・ギリシャ、スイス、中国と沢山乗ってきました。

11:23、カシュガルのホームにゆっくり停車します。ここで線路は行き止まり。一筆書きの旅ですから、行き止まりの駅はラサ以来2回目になります。

 「あ~」

関口さん、伸びをしながらホームに降り立ちました。

 「乗り終わり~!」

お疲れ様でした。総乗車時間、実に587時間11分。平均時速62.2kmで中国全土を巡った旅でした。

終点カシュガルは1999年にコルサ―カシュガル間が開通して終着駅になったので、終着駅としての歴史は浅いですね。もちろんシルクロードのオアシス都市としての歴史は古く、人口37万人の8割はウイグル族です。駅前はビルの建ち並ぶ新市街ですが、一歩裏道に入ると、日干しレンガの壁で囲まれた旧市街が広がっていました。

 「張り出しだ」

旧市街の家々は、それぞれが長い歴史を刻んでいます。一階の建物の上に張り出して二階が築かれたり、継ぎ足し継ぎ足しでいつしか迷路のような作りになりました。

迷路の両側はレンガの壁が続いて無愛想ですが、中にに入ると中庭があって家が建っているイスラム風の作りです。

 「綺麗だねえ。こんなの大好き!」

青い柱や階段の手すりにはこまかい装飾が施されています。応接室には赤やオレンジ色の暖色の装飾が‥

 「中の入ったら、こんなに綺麗なんだわ」

レンガ作りの外壁との落差にビックリしますね。

路地の上を渡り廊下みたいに家が張り出して、トンネルみたいになっている所もありました。上がらせてもらうと、渡り廊下に見えたところは部屋でした。

 「通れるわけじゃないんだ。道の上のお部屋」

おばあさんが携帯電話で話をしてました。お孫さんは自転車に乗って習い事に。自分の椅子も持参です。中世さながらの旧市街も、中は現代の生活が営まれていました。

 「旅が終わった気しないねえ」

関口さん、何回もそういってました。根室で終わった日本の旅と違って、カシュガルはシルクロードの真ん中で、中央アジアやイスラム世界の入口にあたります。終わりでもあり、新しい世界の始まりでもあり。終わった気がしないのもよく分かります。

それでも、中国の旅はここで終わり、列車の旅もひとまず終わりです。「異郷にあって己を知る」、日本をいろんな角度から考えなおす旅でもありました。その上でまた、日本と世界を結ぶ活動を「魂のような勢いで」始めたいと関口さんは語っていました。

駅からタジキスタンに向けて少し線路が敷かれ、そこで終わっています。ラサで線路を歩かせてもらってから半年余り。ようやく、もう一方の端にたどり着きました。ここまで一筆書きで線路は繋がっているのです。線路に耳を当てるとこれまで乗った列車の響きが聞こえてきそうです。一番端に立て札が立ってました。

 「何も書いてないんだね」

空白の立て札は、今後の行き先がまだ未定なことを示しているようでした。思い出の詰まった線路を引き返しながら関口さん、呟きます。

 「これで一度、ゼロに帰ろう」

きっと、新しい展開が見つかることでしょう。4年間、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました!!

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2007年12月13日 (木)

中国鉄道大紀行 その99 明日で終わりなのに‥

中国鉄道大紀行 その99 明日で終わりなのに‥
11月14日。明日で最長片道切符の旅も終わりです。今日はクチャから綿花栽培の中心地アグスまで至ります。

9:14、クチャ発。ホームには沢山の人が並んでいました。車内も満員です。綿花の収穫期の出稼ぎを終えて、故郷に帰る人達なのだそうです。そういえば、秋の旅でも最初の方で綿花摘んで糸巻きしたりしてました。あれから2ヶ月。車窓に広がる綿花畑も茶色く枯れて、採り入れ終盤です。

5才くらいの女の子をつれたお母さんがいました。出稼ぎの帰りだそうです。子供連れの出稼ぎも、ご苦労様ですね。お母さんはおしゃれしてて、女の子も両手を振り振りして楽しそうでした。やっぱり、うちに帰るのが嬉しいのでしょう。その一方でお母さんの指は真っ赤です。

 「綿摘みで手が荒れたので薬草を塗っているんです」

なかなか、きつい労働だったようですね。他の皆さんもそんな出稼ぎからの帰りなのでしょう。途中で拾った小さなネコをつれてる人もいました。

天山山脈のふもとを走ること4時間余り、13:16アクス着。人口50万人、この地域の綿花栽培の中心地です。少し街を外れると綿花畑が広がっています。ここも葉や茎が枯れかけで茶色くなっています。

綿花畑に所々、牛や馬がいました。採り入れが終わった綿花畑に放して枯れ葉や枯れ枝を飼料にするのです。関口さん、別の畑で綿摘みしてる女の人に声をかけてみました。

 「こんにちは〜。全部一人で摘むんですか?」

 「そうよ」

お兄さんが果樹園だった土地を綿畑にして、一部分けてもらったそうです。綿の方が儲かるんでしょうかね。1日20kg摘むという話でしたが、フワフワの綿を20kgも摘むなんて、とんてもない重労働です。

 「摘みますよ〜」

と声をかけてみましたが

 「申し訳ないわ。自分でしますよ」

との返事。でも、「まあそういわずに」と一つ摘んでみました。綿の実の根元をつまむとフワフワの実がポロッととれます。

 「パンパンになってる感じ」

ずっしり繊維が詰まっているみたいですね。顔や首筋に当ててみると気持ち良さそうです。続けて、いくつか摘んでみました。

 「今、これお手伝いで摘んでるけど…」

 「日本に帰って布団買ったら、俺が摘んだ綿ってこともありうる訳だよねえ」

 「お手伝いじゃねーじゃん」

関口さん、上着を脱いで本格的に摘みはじめました。

1時間、2時間‥黙々と綿を摘みます。上空に時折鳥の羽音が響き、牛のモ〜〜という鳴き声が聞こえました。摘んでも摘んでもまだまだ一杯あります。

 「なんか全然旅が終わる気がしないね、これ」

 「明日で終わりなのに‥」

 「明日で終わりとは思えない、のどかな時間」

摘み終わった畑には山羊が入ってきて、ムシャムシャ枯れ葉を食べ始めました。特に知り合いの山羊というわけではなく、収穫が終わった畑は誰が入ってもいいそうです。

関口さん、なおも綿を摘み続けます。日本の生活では、沢山のものに囲まれて生活してますが、あらゆる品物は最初は原料だったわけで、原料を生産した人がいるわけですが、そんなことは普段はすっかり忘れています。この最初に生産した人の手応えを確かめるように、関口さんは日暮れまで綿を摘み続けました。

午後7時半、女の人の旦那さんが迎えにきました。ずっしり綿が詰まった袋を担いで帰り支度です。

 「日暮れたもんね、もう‥」

 「ありがとう。どうもお世話になりました」

女の人の目は潤んでいるようにも見えました。

 「いいえー。こちらこそいい体験させてもらいました。謝謝ー」

綿摘みすること3時間。こうして、最終日の前日は過ぎていきました。通訳の陳さんは「することがなくて暇だったー」なんて後からおっしゃってましたが、関口さん自身は無意識のうちに旅の終わり、日常の再開を感じとり、残された時間で日常のルーツを探ることを試みていたのでしょう。日本にいたのでは出来ない、貴重な日常体験だったともいえます。

日常が再びクローズアップされてくるなか、明日はいよいよ旅の終着駅カシュガルです。

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2007年12月12日 (水)

中国鉄道大紀行 その98 音楽の街♪

中国鉄道大紀行 その98 音楽の街♪
11月13日はホーチンから、古代亀茲(きじ)王国が栄えたクチャに向かいます。

8:46、ホーチン発。この時間ですが。まだ日が昇っていません。西に行くほど日の出日の入が遅くなるのです。日本でも北海道と九州では40分ほど違いますが、中国の場合、東の端と西の端では3時間ぐらいの差になります。9時頃ようやく日が昇りました。

褐色の山並みに沿って、タクラマカン砂漠を西に向かいます。乗客の多くはウイグル族。「ヤクシマスス(こんにちは)」の声が聞こえてきます。

13:38、クチャ着。人口40万の街です。三蔵法師の時代には、仏教王国亀茲が栄えていました。10世紀ごろには衰退してしまいましたが、その後も西域に広がる亀茲楽の中心として知られているそうです。

とりあえずは駅前の屋台で腹ごしらえです。テントみたいな屋台であたりは広場みたいになってました。なにやら串に差して焼いているので聞いてみると「豆腐」とのこと。唐辛子を振ってたべるようです。関口さん、「不思議な味‥」とか言ってましたので、余り美味しくなかったのでしょうか。ネットの旅行記を見ると「クチャの料理は辛い」という記述が目につきます。インドネシア料理より数倍辛いとか、唐辛子は少しにしてくれと頼んだら、少しだけといいつつ山盛りかけられたとか。串焼き豆腐も辛かったのかもしれません。

シラカバの木が植えられた通りを歩いていると、小学生の一団にすれ違いました。一度通りすぎたものの、変わった人が気になるのか、口々に声をかけてきます。

 「どこ行くの~?」

 「どこ行くの~?」

関口さんが無視して歩いていると、ぞろぞろついて来ます。ハーメルンの笛吹きみたいです。

 「女の子みたいな歩き方だねー!」

 「うるさいな~!」

関口さんが振り向くと、サッと逃げます。前を向いて歩きはじめるとまたぞろぞろ‥。ダルマさんが転んだ状態です。素朴というか無邪気というか、何かと物騒な今の日本では見られない光景ですねえ。微笑ましいです。しばらくチェイスしたあと、子供たちは去っていきました。これから学校があるのです。

街外れまでくると、通り沿いに観光果樹園がありました。

 「旅行者ですがいいですか?」

 「どうぞ、どうぞ」

というわけで関口さん、中へ。どうぞ、といったもののシーズンオフなので、店の人は慌てて支度しています。赤い絨毯と座布団を引いて、ナン、ザクロ、葡萄、アンズ、クルミ、ナツメをダンダンダンダンダンと並べて‥

 「すごい品数!」

果物は辛くないので安心して食べられますね。美味しそうです。

 「ヤクシマスス(こんにちは)」

楽器奏者の方がやってきました。音楽でももてなしてくれるそうです。最初の奏者は琵琶のような形のドゥタールという楽器を持っています。昔、シルクロードを通ってこの地方の楽器が正倉院に伝えられたと言いますから、琵琶に似た楽器があっても不思議ではありません。実際、クチャは雅楽の故郷とも言われています。

ドゥタール奏者のおじいさんも演奏するのは久しぶりみたいでした。

 「代えの弦がないから気をつけてね」

と、ここの奥さん。

 「切れたらズボンの紐を使うよ」

なんて軽口を返してるうちに演奏が始まりました。

 ♪ジャジャジャジャンジャンジャ!
 ♪ジャジャジャジャンジャンジャ!

アップテンポで軽快なリズムです。

 ♪タタタ、タンタタンタタン!
 ♪タタタ、タンタタンタタン!

関口さんも、タンバリンみたいな楽器を借りて指先でたたきます。セッションがはじまりました。

ドゥタールの方も段々調子が出て来て、ジャンジャラジャラジャラ、ジャンジャラジャラジャラ多彩な音色を奏ではじめました。ちょっと津軽三味線みたいな感じです。

おっつけダフ奏者の人もやってきて、演奏に加わりました。さすがに本家は違いますね。右手で巧みにダフを上下に操り、左手で楽器の両面を使ってタタンタタンタン、ダイナミックにリズムを刻みます。

 ♪私のバラは~あの花園に~
 ♪いる~だろうか~

歌もはじまりました。中央アジア特有の哀愁をはらんだ、張りのある歌声です。

 ♪深紅のバラよ~
 ♪永遠に~咲いておくれ~

歌に合わせて若奥さんが踊り始めました。両腕を高くあげて首を左右にくねらせて‥。娘さんの小さな女の子も、つられて可愛らしく踊りはじめます。ひとりでに体が動くのでしょう。実に自然な動きです。いいですねえ、こういうの!

楽器が歌が踊りが自然に出て来ます。日常生活の中にすっかり音楽が根付いているのでしょう。こういう生活には、とてもあこがれますね。

いよいよ中央アジアの色彩が濃くなり、旅も残り2日となりました。

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2007年12月10日 (月)

中国鉄道大紀行 その97 トルファン美人

中国鉄道大紀行 その97 トルファン美人
11月12日はトルファン近郊を回ってから、ホーチンに向かいます。一筆書きの旅なので、ウルムチにはいかないようですね。

トルファンは標高が海面より低い不思議な土地です。人口24万人の市街地が標高マイナス20m、一番低い所は湖(アイディン湖)になっていて標高マイナス154m。当然、ここから流れ出す川はなくて、流れ込んだ水はすべて蒸発して、お空に飛んでいきます。夏場は50℃を越える乾燥地帯ならではの地形ですね。中学の頃、地図でこの海面下の盆地を発見したときに、どういう所なんだろうとあれこれ考えたことをおもいだしました。

関口さん、まずはトルファン近郊の火焔山を訪問。西遊記で三蔵法師の前に立ちはだかったとされる火の山の舞台です。ゴツゴツした赤い岩肌には草一本生えてなくて、火星かどこか地球ばなれした風景でした。夏には猛烈な暑さに陽炎が揺らめいて、まさに火の山になるそうですが‥

 「火焔なのに寒いよ〜」

冬場は冷気が盆地にたまって、氷点下30℃にもなるそうです。いずれにしても厳しい環境ですね。

それでも日差しはたっぷりあるので、水さえあれば作物はそだちます。そんな訳で、天山山脈から地下の水路(カレーズ、あるいはカナート)ではるばる水を引いて葡萄を栽培するのがトルファンでは昔から盛んでした。葡萄村という地域では一面、葡萄畑で夏場は緑したたる葡萄棚が涼しい木陰を作ってくれます。関口さんもとある葡萄農家を訪ねましたが、今はすっかり葉も落ちて冬仕度の最中でした。

 「こんにちは。どういう作業をしてるんですか」

 「凍らないように土の中に埋めてるんだよ」

葡萄のツルを棚から外して春がくるまで埋めておくのだそうです。スコップで黙々と。環境の厳しさに適応するには手間がかかるものですね。

道端で山羊を引いていたおばさんに声をかけると、いきなり手綱を渡されてしまいました。歩き回る山羊に引かれて通りをうろうろ‥。茶色の日干しレンガでできた家並みが続いています。しばらくして飼い主が帰ってきて家に招いてくれました。何か支度をしてたんでしょうかね。

日干しレンガの入口を入ると中庭になっていて、葡萄が干してあります。左手が住居です。干し葡萄を一粒頂きました。

 「ひえ~~。甘~~い!」

 「すげ~うまい~!」

緑のマスカットみたいな干し葡萄、なかなか美味しそうで、2粒、3粒頂いてました。さらに娘さんが焼いたというクッキーもご馳走になります。大きくて美味しそうです。この干し葡萄とクッキーを販売して生計を立てているのだそうです。美味しそうではありますが、それだけでは生活するのは苦しいでしょうね。

「20才です」という娘さんは、今年看護学校の試験を受けたけど、通らなかったそうです。

 「お金払えば入学できる所はあるけど、うちは貧乏だから‥」

公立と私立の看護学校があるのでしょうかね。高い授業料を払いながら学校へいくのは、こういう土地の人には難しそうです。

 「来年の夏にもう一度受けます」

ということですので、是非頑張って欲しいものです。

そのあと、お母さんの知り合いの家にも案内してもらいました。

 「パーティみたい」

 「ピャオリャン(綺麗)な人いっぱいいるよ」

テーブルに一杯料理が並んで、赤や金の飾りが綺麗に飾りつけられています。結婚した娘さんたちが初めて里帰りしてお祝いをしている所でした。

 「楽園みたいになっちゃった」

こうしてピャオリャン姉妹の真ん中に座って、お茶やお菓子を勧められているときです。

 「列車の出発時間だよ」

とスタッフから声がかかりました。

 「えっ!!」

 「出た。良くなってくると、メイヨーシーチェー(時間がない)」

慌ててお母さんや娘さんたちに挨拶して、お別れです。ご馳走も食べ損ねてしまいました。残念!

まあ、どこまで演出なのか分かりませんが、ギリギリに列車に駆け込んでましたから、相当行き当たりばったりに旅行してるようではあります。行き先は綿密に決まってるのでしょうけど、そこで何が起こるかは、行ってみてのお楽しみということなのでしょう。

14:11、トルファン発。軟臥の車両でさらに西に向かいます。途中駅で機関車を増結し、機関車を2台連ねる重連にします。天山山脈越えの準備です。海面下のトルファンから、標高2980mまで一気に上るそうですから半端じゃありません。上るに連れて、雪を頂いた天山の山並みが見えてきました。これまた絶景ですねえ。いつか行ってみたいものです。

21:18、ホーチン着。今日もお疲れ様でした。

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2007年12月 8日 (土)

中国鉄道大紀行 その96 敦煌散策

中国鉄道大紀行 その96 敦煌散策
週末、敦煌からの中継のあと、11月11日は柳園(りゅうえん)からトルファンへ移動します。面白かった旅もいよいよ最終コーナーです。

生中継では、関口さんは鳴沙山の北麓にある月牙泉を訪ねました。シルクロードの昔から絶えることなく湧き続けているという、神秘的な泉ですが、近年は水量が大幅に減っているとのこと。地下水汲み上げの影響でしょうね。特別の許可を得たとのことで、関口さん中に入れてもらって水をすくって飲んでました。今でもそのまま飲める所に少しビックリ。冷たくて美味しそうでした。

その後、しばし敦煌の街中散策です。置物、古着、木彫り、アンズやナッツやグレープなどのドライフルーツ。フリーマーケットみたいに店先に品物を並べて色々売ってます。

 「細かいなあ〜!」

関口さんが、木彫りのお店で手の込んだ細工物に関心してると、「やってみないか」と誘われてしまいました。

「俺が?」とか言ってましたが、木刀を持って砂漠をラクダが行くシーンを彫り上げていきます。影の回りには細かく点々と彫りを入れて、砂が光に煌めくさまを‥。さすがですねえ。

仕上げは店の人に任せて散策の続きでました。お昼ご飯は、鳥のひき肉入りワンタンです。

 「なんか美味しそうだな」

ひき肉を包んだワンタンにとろみのあるあんがかかっています。

 「うま〜。やっぱり、うまい!」

 「マーラーメンとっていいですか?」

関口さん、向かいの店で見掛けたマーラーメンを注文していいかききました。あんまり普通ではないリクエストですが、「いいよ」ということで辛味のあるラーメンが出前されてきました。

 「店の往来ができるのが嬉しいな」

マーボー豆腐の「マー」で辛そうですが、なかなか美味しそうでした。

木彫りの店で美しく仕上がったレリーフを受け取って、そろそろ出発です。20:47柳園発。夜行列車でトルファンに向かいます。といっても、寝台ではなく軟座の車両。ウイグル族のお兄さんたちに帽子を見せてもらって、歌を聞かせてもらいました。

帽子はインドネシアの人がかぶってるような丸い縁なし帽です。鞄に入るので、いろんなデザインのを持ちあるいて気分によってかぶるようです。

 「これをかぶると良くものが売れるんだ」

という緑の刺繍のついた帽子を関口さんもかぶってみました。でも、も一つしっくり来ません。ウイグル族の彫りの深い小顔にやっぱり合う帽子ですね。

関口さん、例によって一曲所望して歌ってもらいました。哀愁を帯びた歌声です。

 ♪お母さん、あなたと別れて
 ♪私の顔は青ざめています
 ♪まま母との暮らしは涙が流れる
 ♪ご飯かと思ったらおかゆだった
 ♪ナンが出て来たら焦げていた
 ♪ああ、お母さんはもういない‥

母親が離婚した歌なのだそうです。正直「なんちゅう歌じゃ」と思いながら聞いてましたが、そういう辛い体験をする(した)人が多かったということなんでしょうかね。歌ってくれたお兄さんは、陽気で男前だったので意外性がありました。一曲所望して、こういう歌が出て来る背景に興味が湧きます。

 「なんとも言えない雰囲気があるんだよね」

 「こういうの大好き」

旅も最終盤に入って中央アジアの雰囲気が色濃くなってきました。5:08トルファン着。ここでは何が待っているのでしょう。

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2007年12月 7日 (金)

中国鉄道大紀行 その95 月の~砂漠を~♪

中国鉄道大紀行 その95 月の〜砂漠を〜♪
中国鉄道大紀行 その95 月の〜砂漠を〜♪
11月8日は柳園(りゅうえん)駅から敦煌(とんこう)を訪ねます。

4:25、嘉峪関(かよくかん)発。昨日に引き続き早朝の出発でご苦労様です。長城の外の西域を走ること4時間、8:20に柳園着。ここが敦煌の最寄り駅ですが、敦煌自体は鉄道のルートから外れているので、さらに100kmほどバスで行かなければなりません。なかなか、遠いです。

日も高く上るころ、ようやくオアシス都市敦煌に着きました。人口13万人。小さな街に感じますが、砂漠の真ん中で地下水に依存という立地を考えれば十分大きな街です。街中にはホテルもあってシャワーも使えるし、レストランでは地下水で養殖した魚も出るらしいのですが、これ以上の街の拡大は難しいでしょう。

大通りを歩くと遠くに砂丘が広がっているのが見えました。

 「すごいね、砂漠」

 「あんな背の高い山になってる」

△型の砂山が一際目立って見えます。街の南西7kmに聳える鳴沙山です。今日はそこで砂漠見物をします。

入口に〈鳴沙山月牙泉〉と書かれた門が立っていました。

 「門の向こうは全部砂!」

 「ジャーン、ジャジャーン!」

関口さん、いつもにましてハイテンションです。門の向こうには果たして、砂漠が広がっていました。思わず駆け出します。

 「砂ーー!きえっーー!!」

両手で砂をすくって放り投げます。それぐらい雄大な風景でした。思ったより遥かに大きな砂丘の迫力に圧倒されます。その奥に果てしなく続く砂丘の波、波‥。東西50km、南北20kmに渡って砂丘が続いてるのだそうです。敦煌ってこんな所だったんですね。名前は有名ですし莫高石窟の写真も見た事はあったのですが、こんな、広大な砂丘地帯がすぐそこに広がっているとは‥

 「なんかのフォルムみたい」

 「ピャオリャン(綺麗)だねえ。ツルツル‥」

砂丘の波は荒々しいというよりむしろ優美で、草一本生えない砂肌は遠目に陶器か何かのように見えます。いにしえのシルクロードの面影を残す幻想的の光景でした。昔は、夜中に静かに砂が流れる音が楽器を奏でるように聞こえたという記録もあって、それが「鳴沙山」という地名の由来になっているそうです。

今の鳴沙山はすっかり観光名所になっていて、定番のラクダ体験も出来るようになっていました。鳴沙山北麓にある月牙泉まで往復するのが普通で30元(450円)とかネットの観光情報にありましたが、関口さんは鳴沙山登山の2時間コースの方をチョイス。57番というゼッケンをつけたラクダに跨がりました。

 「立つとき、前に倒れて怖いのよ~」

ラクダは後ろ足から立つので、その時前に振り落とされそうになります。これが苦手な人はラクダの引く馬車(?)に乗るのですが、関口さんはうまくコブにしがみついて立つことができました。ラクダの高さは人の背丈くらいあって見晴らしが良さそうです。カランカラン音をさせながら、ゆったり歩きだしました。

 ♪月の~砂漠を~
 ♪は~る~ばると~

やっぱりこの歌がでますね。ぴったりです。砂に映る長い影が砂漠の旅情を感じさせます。夏場は50℃を越して極めて暑いので夜のツアーが人気だそうですが、そのときはまさに「月の砂漠」を体験できるでしょう。

ふもとでラクダを降りて、鳴沙山に上ります。標高は1715m。もちろん、そんなに上るわけではなくてふもとからの標高差は250mほどですが、砂に足を取られて上りにくそうでした。息を切らしてようやく山頂に‥

 「あら、綺麗‥」

 「アイヤー!」

本当に遠くまで広がる砂漠が一望できました。これは見事です。同時に敦煌が砂漠の真っ直中に浮かぶ都市であることも実感できます。

帰りは木でできたソリで下ります。ちょっとキシキシ言ってのが気になりますが、スタートすると一気にトップスピードに。

 「あーーーー‥‥!」

 「ひえぇぇぇ~~、楽しいじゃんこれ!」

一気に下ります。

 「せっかく苦労して上ったのに~」

リフトのないスキー場だとこんな感じでしょうか。でも関口さん、とっても楽しそうでした。敦煌、いいですねえ。石窟もいいですが、鳴沙山の砂漠体験も行ってみたいリストに加わりました。

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2007年12月 5日 (水)

中国鉄道大紀行 その94 最果ての長城

中国鉄道大紀行 その94 最果ての長城
中国鉄道大紀行 その94 最果ての長城
11月7日は嘉峪関(かよくかん)で長城の西端を見学します。

4:42、張掖(ちょうえき)発。まだ暗い中を出発します。東の空が朝焼けに染まるとすぐに、7:44嘉峪関着。今日はたっぷり長城をみることができます。

ここは明の時代につくられた万里の長城の西の端がある所です。10月2日に東の果て山海関をモーターボートから眺めてから1ヶ月余り、ついに西の果てまでやって来ました。

ザッザッザッザッと関口さん、長城に沿って歩いていきます。長年の風雨で削られて、城壁は半ば崩れかかってました。草の生えた地道も年期が入っていそうです。

 「つか、こんな辺鄙な所にあるのか」

有名な地点ですから、何か交通機関があってもよさそうですが、ひとけのない細い道をひたすら歩きます。

 「まさか、旅の残り2週間になって、万里の長城に会うとはね…。長い事だわ」

 「俺も長城もご苦労さん!」

山海関からここまで6000km続いてるのかと思うと、本当に長いですね。そしてついに長城の果てに着きました。

乾燥地帯には珍しく河が流れ、大きな渓谷を作っています。長城はその渓谷に突き当たり、そこで終わっていました。眼下には100mくらいありそうな断崖。ここを迂回して騎馬隊が攻め込んでくることは至難ですから、長城がここで終わっているのも不思議ではありません。

 「人工的な壁だと思っていたけど、最後は自然の壁で終わってるのね」

 「人間もすげーけど、自然もすげー!」

この光景は渓谷を挟んだ反対側にある展望所から眺めることができます。ガラスの扉を開けると、ちゃんと柵のついた展望所があって、その下が断崖絶壁。柵がないと超スリル満点なことでしょう。

長城の先端には何やら建造物の跡が見えますが、これが「天下第一烽火台」。敵の来襲を知らせる狼煙(のろし)をあげる施設です。「第一」というのは、ここから順に第二、第三‥と烽火台が続いていること、いいかえればここが長城の出発点であることを示しています。最前線で守備にあたる人たちにとって、ここは長城の「果て」ではなく、長城の「始まり」だったのでしょう。

烽火台からの情報は守備隊の本拠に伝達されます。この本拠こそが「嘉峪関の関所」。もちろん単なる関所ではなく、周囲700mの城壁に囲まれた要塞です。これが「天下第一の関」で河西回廊の喉元を押さえます。

断崖の烽火台から7kmほどありますが、関口さん、関所の方にも行ってみました。こちらは国が修復を行い、威風堂々とした姿を見ることができます。

 「あらら〜」

堅固の城壁の所々に大きな鐘楼が築かれ、さっきの崩れかけた長城とはえらい違いです。さらに東方には、龍のごとく延々と横たわる長城の姿が‥。こちらの方は地元の人がボランティアで修復に当たっているそうです。

東の方の長城は、私財を投じて修復に当たってらっしゃる、楊永福さんに案内してもらいました。子供の頃から近くに住んでいて、荒れる一方だった長城をなんとかしたいと思っていたそうです。これまでに修復できた長さは11km。

 「崩れた所を元どおりに修復するんだ」

大変な作業ですね。ただ、せっかく修復しても強風や砂嵐にあうとまた崩れていってしまいます。そこで楊さんは、長城を守るために防風林の植林も同時に進めてらっしゃるのだそうです。

植林のために祁連(きれん)山脈から引いたという水路に案内してもらいました。石組みの水路を清冽な水が滔々と流れています。関口さん、思わず一口‥

 「いやあー冷てー!!」

 「冷たくて、うまい!!」

さらに関口さん、頭から水をかぶり始めました。

 「ひえ〜〜! ひえ〜〜!」

 「ここでこうなるとは思わなかったなあ〜」

本当に水の好きな人ですね。楊さんもビックリしながら、ニコニコしてらっしゃいました。

この水が柳の並木を育て、柳並木が修復した長城を守ることになります。聞かなければ、水と長城に関係があるとは気がつきませんが、物事にはいろんな所でつながりがあるもんです。

 「砂漠に木を育てるのは、子供を養うのと同じくらい難しいんだ」

長城の修復だけでなく、自力で緑化まで手掛けるとは凄い方です。

 「偉い!おじさんは偉い!」

 「凄いな。尊敬するよ!」

全く同感ですね。実り多い、嘉峪関の旅でした。

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中国鉄道大紀行 その93 時間の旅

中国鉄道大紀行 その93 時間の旅
11月6日は武威(ぶい)から張掖(ちょうえき)まで、河西回廊を旅します。いよいよ、シルクロードに入って来ました。

9:41、武威発。昨夜22:18に降りてすぐ、翌朝の出発です。ここで何かを見るためというより、これからの路線を昼間通るために昨夜降りたみたいですね。武威を出るとすぐに素晴らしい景色が展開しました。

南には遠く祁連(きれん)山脈の山並み。5000mを越える山々が白銀に光っています。この雪解け水が地下水となって、シルクロードのオアシスを潤します。

北には内モンゴル自治区のゴツゴツした山並みと茶色の平原。くっきりした青空と岩山のコントラストが、地球ではない風景のようです。それを食堂車でお茶を飲みながらゆったり眺める関口さん。いいですねえ〜! こういう旅をしてみたいものです。眼下に遠く羊の群れが通り過ぎていきました。マルコポーロの時代に帰ったかのような錯覚を覚えます。

車内では、小麦粉を丸く焼いた餅子(びんず)や、卵や胡麻を練りこんで焼いたナンを食べる人達。餅子は中国北部の主食、ナンはウイグル族の主食だそうです。どちらも美味しそう‥

車内外の風景を楽しむうちに、12:53張掖着。人口120万人。2000年以上前、漢の軍勢が河西回廊を抑える匈奴と戦った土地です。今も野菜の実りが豊かな土地として知られています。関口さん、郊外の農家を訪ねてみました。

ちょうど、タマネギの収穫の最中です。道端にうずたかくタマネギが積まれ、農家のおばさんが何人かで皮剥き作業をしてました。近くの飲食店に出荷するために、あらかじめ皮を剥いているのだそうです。それにしても丸々してて大きなタマネギです。

 「日本のこんな大きかったっけ?」

一つ剥かせてもらいましたが、なかなか難しそうです。

 「まだまだ、沢山あるわよ」

おばさんが隣りからギャッギャッとナイフを突き出して、器用に剥いてくれました。ちょっとこわいですけどね。

ひとしきり皮剥きをしたところで、近所の「とっておきの場所」に案内してもらうことになりました。

村の中を歩いていると、おばさんの知り合いと擦れ違います。

 「あら、若い子なんかつれて」

 「日本人なんだって。ちょっと案内してるのよ」

そんなことを言いながら15分ほど歩くと、何やら遺跡のような所に着きました。土で出来た壇の回りに土壁が築かれています。城壁と見張り台のようです。土壁を乗り越えて中に入ります。

 「うわ〜まだあった」

 「広いなあ〜! こんなに広いのか!」

城内なのでしょう。数百m〜1kmほどの空間が広がり、それを土壁がぐるりと取り巻いていました。

 「壁しかないの?」

 「昔、街があったけど残ってないの‥」

1800年前、後漢の時代に建てられた城なのだそうです。匈奴に備え、シルクロードの通商路を守る軍事拠点だったのでしょう。

 「最近までここは誰も住んでなかったの」

 「忘れられた場所なんだな」

5000人の城兵に守られた城は8世紀におそらくはウイグルの攻撃で滅亡し、それ以来1000年以上忘れさられていたのです。そう聞くと1000年昔の人馬のいななきが聞こえてくるような気がしました。

 「なんかやっぱりこの旅は、時間も旅行しているような気がするね」 

遺跡の真ん中に腰掛けて、関口さん、感慨深かげです。

 「間違いなく、今じゃないものの所に、今いるんだもんね」

遺跡の土壁を越えた時、過去へタイムスリップしたのでしょう。さっきまでタマネギを剥いていたのが嘘みたいですね。空には昔の物見も眺めであろう、透明な夕焼けが広がっていました。

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